気づけばもう何年も一緒に仕事をしている方に
言われた忘れられない言葉がある。
なんとかかんとかちょっと褒められたような気がしたその後で
「中城さんは野犬みたいですね」
と言われたのである。
や…野犬?! 野良犬?!
それって「野良にしては毛並みが綺麗ですね~」とかの方じゃなくて
雨に濡れて痩せこけたボロ雑巾の方の野良やろ…?!
という心の声は胸にしまったまま、
「最近見かけないですね~ハハ~」
ぐらいしか言えなかった。
「それぐらい稀少な存在ってこと~」
とフォローにならないフォローをもらったけど
それはなかなかの衝撃でしたわ。
あれから数年経ち、つい最近も
「野生の取材を身に付けていますね」
と言われてまたしても衝撃だった。
また“野っっっ”?!!!
野良感をなんとかポジティブに解釈したくてググってみる。
「野良犬」は飼い主がなく、人家の周りをうろついて残飯などを食って生きる犬。
一方「野犬」は人から離れて山野に住み着き、
鳥獣を捕食する野生化した犬をいうのが一般的だが、この違いは曖昧である。
とある。
へぇ~“野良犬”と“野犬”って違うんだ~!
私は野犬の方だから、残飯の方ではないんだね~!
一瞬ホッとしてみるけど、正直どっちも嫌や。
もしかして辞典を開けば、3つ目の意味あたりに
まったく異なる解釈を書いているんじゃないかと
目を皿のようにして探したものの…なかったですね、はい。
やっぱり “野良”と言うとボロ雑巾感があって聞こえが悪いから
“勘がいい”ってことでいいよね?!
と、自分を励ますべく思いきり高く見積もってみる。
確かに私は、五感を頼りに生きているし、
これまで「しっかり者だね」なんて言われたためしがないし、
だから家事&子育てのもろもろは大変なんだよなぁ…。
先日、娘が朝の登校班の時間に間に合わなかった。
そこまでの準備にも散々やきもきして車に乗り込み
学校の正門の下まで送って行ったときのこと。
「さ!! 降りて! 行ってらっしゃい! 」
と母は鼻息荒く送迎を完了したわけで。
車を回して、娘の背中でも見送ろうかな~と窓の外に目をやると
居ます!! 居ました! まだほんのすぐそこに…!
なんと運動場で遊んでいる上級生と思われる子どもたちの
サッカーをしている様子を眺めながら
オクラホマミキサーみたいな足取りで
ゆっくりゆっくり(たらたらと?! )
歩を進めているではありませんか!
思わず窓を開けて「早く行け――――!! 」と
腹から叫びたくなり、窓を全開にしたところで、
近くで遊んでた男の子が「はい? 」みたいな顔でこっちを見てて
鬼の形相からそのまま120%の笑顔にスライドするっていう
荒業を習得しましたよ(泣)。
いやはやたまらん。
なぜなんだ!!! とやるせなくなっていると、
ランプの精みたいに子どもの頃の感覚がよみがえる。
運動場で上級生がサッカーしてたら
“わたしも遊びた~い”とか“じょうず~”とか見るよね~。
てか、それすら目に入ってなくて
“葉っぱが落ちてる~”とか“あ、石…”
とか観察してたのかもしれないじゃ~ん?
そのままの子どもの目線になったなら、
いくらでも観察の対象はある。
私は田舎育ちだったから学校帰りには
道端の葉っぱや野花を気ままに摘んだり、
人様の家の庭を冒険気分で通ったりしてたっけ。
家でもお風呂が水風呂になるまで
水滴を眺めていたり、
草が風に揺れるのを草の気持ちになって
長いこと眺めていたこともある。
そんな夢か現かわからないような時間は
今でも鮮明に記憶の中に残っている。
子どもの視点に立ち返れば
娘の非合理的な行動のすべては、
実はとても大事な時間だとわかる。
そもそも時間の感覚もあやふやなのだから
ふわふわゆっくり歩きたくなる
気持ちもわからなくもない。
でも、でもね。そうは言っていられない朝もあるんですよ…。
その数日後、風呂上りに娘がおもむろに喋り出したエピソードがある。
(彼女はよく風呂上りに心情を吐露する)
娘「今日ね、りんちゃんプールで迷子になっちゃったんだ~」
母「え?! どゆこと? 溺れたかけたとか?! 」
娘「なんかね、お友達と一緒に遊んでたんだけどね。
横になったり、上になったりして気持ちいいなぁ~と思って。
水がきれいだな~太陽がきれいだな~と思ってたら、
みんながどこに行ったかわからなくなって迷子になったよ(驚)! 」
母「あぁ、そうゆうこと…」
ひとまず娘の安否確認ができたところで
“それや! その時間や! その時間がサクッと準備が終わらん理由や! ”
と、先日学校へ送った朝の光景が蘇る。
保育園の頃から不思議ではあった。
お迎えに行ってもサッと靴を履いてくる子もいるのに
娘だけなぜかやたらと時間がかかっていたし…。
家庭訪問の時も担任の先生に
「りんちゃん、たまに自分の世界に入ってますよね」
と言われたよな~…。
そんな娘の素行を不安に思う一方で
キラリと光る水面を美しいと感じたり
太陽の眩しさを感じたり。
そうやって心のままに過ごす時間は心底大事やからな!
と松岡修三ばりの熱で思う私もいる。
大人と子どもが交錯する母の脳内は常に忙しい。
子どもが心ここにあらずの瞬間は、
きっとその子にとっては感性を育む大事な時間だと思う。
それを「早く行け――――!!!」とぶった切ろうとしていた私の方こそ、
一体全体どうかしてるぜ。
自分の中でせめぎ合う、子どものままの視点と、大人の事情。
その間で揺れる私はいつも茫然としてしまう。
ここの折り合いをどうつけたらよいものか?
本当に、謎なのである。