塚原まきこさん/しごとの履歴書

1日24時間、1年365日、4年にいちどは366日。

毎日起きて、歯を磨いて、ごはんを食べて、仕事したり、勉強したり、

なんだかんだやって、おふろに入って、そして寝て。

なにげない日々を繰り返しているだけのようなのに

ふりかえってみれば、人生っていろんなことが起きているし

ある時、その時の選択で、いまの自分がここに立っている。

 

あなたと私、なんだか似てるね。

なんて人がいたとしても、誰ひとりとして同じ人生歩んでいやしない。

これまでも、これからも、自分という人間は、自分だけ。

そんなこんなを考えめぐらせていると、

自分が宇宙のなかにポーンッと放り出された

ノミのような気持ちになってしまうのは、私だけ?

 

というわけで、自分の人生振り返ってみても

腹の奧がひんやりしてくるだけなので、誰かの人生の

ほんの一部分を、のぞき見、、いや、共有してみたいと思い

「しごと」をテーマにしたインタビュー、やってきました。

題して「しごとの履歴書」。

 

第一回目(おそらく不定期)は、

ラジオパーソナリティの塚原まきこさんです。

 

 

はじまりは、
BEEF WITH RICEと
スカウトと

 

 

塚原さんのパーソナリティ人生、30年。

ということは、平成の時代とともに

塚原さんのしごと人生は、あります。

 

きっかけとなる出来事があったのか、聞いてみると

 

「きっかけは、スカウトでした。場所は、デーブスレストラン。

あの、BEEF WITH RICEのデーブスレストランです。

まさに食事中に、ふたり組の男女に声をかけられました。
スカウト、という言葉は知っていましたが、

まさか自分が? という気持ちでしたね」

 

デーブスレストランは、

バブル時代に青春時代をすごした人なら誰もが知る

当時の熊本の高校生の社交場のようなお店。

塚原さんに声をかけたという男女は、

電通マンとスタイリストさん。

ちょうどあるクライアントのCMに起用する

女子高生を探していたところに、塚原さんが目にとまったというわけです。

声をかけられた後、

その日のうちにポラ(今でいう写メ、かな)を撮られ

あれよ、あれよという間に、CMデビュー。

このドラマでしか見たことのないような展開が、

塚原さんのしごと人生の第一歩となりました。

 

この時のクライアントが、これ。

♪エス・ピー・エー・アール、スパー♪

 

 

熊本のコンビニエンスストアの、走りみたいな存在です。

このサウンドロゴ、今でも歌えるな~。

当時のチラシの中にある、テレホンカードを見てください。

三つ編みをクルンと巻いて、金ぴかのスパーのロゴを持っている女の子。

この女の子こそが、塚原まきこさんです。

かわいい! というか、今とあんまり変わらない! 不思議!

 

このスパーのCMがきっかけで、テレビ熊本(TKU)の番組で

マスコットガールとして出るようになりました。

最初は、まったくしゃべることができず、

番組のなかでニコニコしているだけだったといいます。

その後、今も人気の番組「若っ人ランド」で

アシスタントを担当したことでテレビレポーターとして

はじめて“しゃべる”仕事をすることに。

 

「とはいえ、当時はしゃべることを一生のしごとにするなんて

思ってもいませんでした。高校卒業後は、

児童教育学科のある短大へ進学し、バイトや教育実習など

とても忙しい学生だったし」

 

そんな塚原さんが、どんなに忙しくても続けていたこと。

それが音楽であり、バンド活動でした。

 

音楽が好き、映画が好き
それが、しごとの
土台になっている

 

塚原さんのしごとのルーツを紐解いていると、

必ずどの場面、どの時代にも登場する要素があります。

 

それは、「音楽」です。

 

「中学生の頃から、音楽の情報が得られるラジオが大好きで

毎日欠かさず、と言っていいほど聴いていました。

高校生になったら、女子高生バンドを結成。

担当はドラムで、大谷楽器の貸しスタジオで練習し、

その後は近くの喫茶店ホイロでメンバーといっしょにごはんを食べる。

そして、マツモトレコードで毎月一枚のレコードを買うために真剣勝負。

学生時代は、音楽漬けの毎日でした。

それが、今のしごとの土台になっているんだと思います」

 

 

短大で児童教育を専攻していた塚原さんは、

卒業後は学校の先生、という周りの期待を背中に感じながらも、

採用試験を受けずにフリーのタレント活動を続けることにしました。

ちょうどその頃、テレビ熊本が開局20周年で

熊本県内の98市町村のキャラバン隊のキャンペーンガールを

していたからでした。

 

採用試験は、いつでもチャレンジできる。

だけど、キャラバン隊は今しかできない。

この時は、一生のしごと、という意識は全くなく

ふわっとした気持ちだったといいますが、

タレント活動を続けているうちに、ご縁が次から次につながり

いつしか制作会社の事務所に所属することに。

そこで出会ったのが、ラジオのしごとでした。

 

「メインパーソナリティがいるラジオ番組で

アシスタントを経験しました。アシスタントとして

取材したことを発信したりして。

学生時代はリスナーとして聴いていたラジオで、

自分がアシスタントとして情報を発信する側にいる。

選曲したり、大好きな音楽に関われる。

ラジオのしごとが、本当におもしろい、と」

 

いつか、いつか、と思っていた採用試験も受けることなく、

それからフリーのタレントとして多忙な日々が続くことになります。

そして、ある時、番組がひと段落したタイミングで

ふと、「外に出てみたい」という衝動に駆られたといいます。

そこで塚原さんが取った行動は、

半年間のフランス・カンヌへの語学留学でした。

 

 

「カンヌ映画祭の、あの華やかな雰囲気をイメージしていましたが

ちょうど映画祭が終わった直後だったので、

ものすごい田舎町でびっくりしました(笑)

熊本を離れて暮らすのが初めての経験でした。

週末はカンヌを拠点に、ヨーロッパの都市を旅行に行ったり。

とにかく世界は広い、いろんな世界がある。

知らないともったいない、と留学をきっかけに強く感じました」

 

帰国後、勢いのまま荷物をまとめて

泣いている両親を振り切って、塚原さんは単身東京に向かいました。

いろんな世界を見るため、自分の世界を広げるため、

コネも知り合いもほとんどない東京で試してみたい。

そんな気持ちが強かったといいます。

 

 

つながりは、ひろがり
好奇心旺盛に
出会いを楽しむ

 

それにしても、いきなり飛び込んだ東京という砂漠で

事務所に所属し、パーソナリティやレポーターとして

活躍するまでになるとは、塚原さん恐るべしです。

その理由を探ろうと話を進めてみると、あるキーワードが浮かびあがります。

 

それは、「つながり」。

 

「東京に出たからといって、すぐに意図するしごとがあるわけでもなく、

最初は音楽の作家さんがいる事務所のお手伝いからスタートしました。

SMAPの曲を手がけるような、有名な作家さんがいる事務所でした。

そこから、現在も所属する事務所につながっていくのですが、

出会う人たちによって新しい扉が開いたり、次のステップにつながって

いくことを何度も体験しました」

 

塚原さんが東京の事務所に所属し、東京を拠点に活動していたのが約8年間。

FM横浜やFM NACK5で番組のパーソナリティ、

CSの「ミュージックバード」やWOW WOWの番組でレポーターを務めていました。

木村拓哉が出演していたウィダーインゼリーのCMにキャストとして出たり、

昼ドラにエキストラで出演するなど、活躍の場を広げていきました。

その間、熊本放送(RKK)のラジオで週一の番組を担当していたため

東京から通っていた(!)時期もあったそうです。

 

家庭の事情で熊本に帰ることになった時も、

人との「つながり」の大切さをひしひし感じたといいます。

 

「帰るかどうか、迷った時に、熊本の番組を担当していた人に

相談していました。そして、背中を押してもらいました。

困った時に、不思議と誰かに声をかけてもらえたり、

助けられてきましたし、そのつながりがあったからこそ

自分の世界も広がってきたと感じます」

 

 

熊本に帰ってからの塚原さんの活躍は、

いろんな場面で知っている人も多いかと思いますが

特筆すべきことは、SNSを活用したラジオ番組の展開です。

熊本放送(RKK)が全国に先駆けて採り入れた

動画共有サービス「Ustream(ユーストリーム)」配信を

塚原さんの番組「福ミミらじお」で展開したところ

たちまちその人気が全国に飛び火しました。

 

「もともと私は、オタク気質。好きなことに関しては、まっしぐら。

音楽も、映画も、パソコンも、インターネットも。インターネットは

パソコン通信時代からのユーザーです。だからこそ、今の多様な

SNSにも抵抗なく、スーッと入ることができたんですね」

 

ラジオは
帰ってくる場所
ホッとできる場所

 

塚原さんは、「ラジオとSNSは親和性が高い」といいます。

ラジオの番組は、パーソナリティとリスナーが直接的に関われる

それ自体が小さなコミュニティ。

いつもの時間に流れてくる、いつもの声。

そして、リスナー達は、

地元だけでなく国内外問わない老若男女が集う。

テレビ番組では味わうことができない、双方向の言葉のやりとりが

ラジオ番組の醍醐味ともいえます。

塚原さんの番組のファンは、小学生からおじいちゃん、おばあちゃんまで

とにかく幅広いといいます。

番組収録に合わせて、小学生の頃から見学に通う男の子もいるほど。

 

「小学生から通っていた子が、今では中学生。

修学旅行のお土産を持ってきてくれたこともありました。

うれしいですよね。

番組に寄せられるメッセージは、

メールやSNSでのメッセージなども増えてきましたが、

ハガキやファックスで送ってくる方も多くいらっしゃいます。

いろんなスタイルで聴いて、いろんなスタイルでつながれる。

ラジオ番組は、自分らしく、ホッとできる場所だと思います」

 

ラジオとSNSの親和性の高さから、近頃ではメディアとしての

ラジオが見直されてきています。全国の番組がインターネットで

配信されるサービスも広がり、さらに広がりを見せています。

 

「自分の声を通して、ラジオから流れる音楽を通して

もっと伝えていきたいことがある。それは、いい音楽を提案すること。

誰かの勇気や励みになったり、喜びにつながる音楽を発信していきたい。

番組がきっかけで、ミュージシャンとのつながりもできました。

ミュージシャンが熊本でライブをする時に、ゲスト出演で

ドラムを叩いたこともあります。学生時代に憧れていた

ムーンライダースの白井良明さんのライブでは、歌で参加させてもらったり。

あの頃の自分に、自慢したいくらいです(笑)」

 

 

ラジオは、ライフワーク。

 

そう語る塚原さんは、30年続けてきたからこそ、

やっと自分らしさも見えてきたといいます。

30年間の塚原さんのことを、駆け足ながらも共有できたことで

塚原さんの声のやわらかさや、やさしさといったものが

どこから出ているのか、わかるような気がしました。

 

 

山内陽子

好きな食べ物。カツ丼、サンラータンメン、ときどきカレー。情報求む。

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