“読み聞かせ”といえば、子育てにおける
いわゆる“いい習慣”の代表格ですよね。
夜、一日の終わりに絵本をめくり、
物語を追体験しながら、親子で感情を共有し
深い安心感に包まれながら眠りにつく――。
そう、一般的にはきっと。
母というものになってもう6年が経つというのに
私にはどうにもそれがすんなりできない。
大抵、最後まで読み終えない内に自分が寝落ちする。
その横で「起きて!! 」「寝らんで! 」とシャウトする子ども。
深い安心感どころの次元ではない。
非常に残念です…。
私も頑張っていけるところまで行こうと試みるも
普通に読んでいると大抵途中で抗うことのできない睡魔に襲われて
バサッと勢いよく顔面に絵本が落ちてくる。
もしくは、半分意識が飛んでいるものの
“発声する”という機能だけは生きていて、
絵本を読んでいる意識で、自分の見ている夢の情景を言葉にしていることも。
(つまり、寝言ですね♡笑)
半分寝ているので、声量も小さいし、
なにかの暗示にかかったように喋っている自分は
正直、超怖いです。
そうしてどれくらい時間が経ったのかはわからない。
ハッ…!!!!! と、意識を取り戻してチラリと横を見ると
娘がかつてないくらい冷ややかな眼でこちらを見ている。
“しまった…! ”と、焦る気持ちを抑えながら
何食わぬ顔をして「寝よ」という一言でその場を仕切り直し、
それ以上言葉を交わすことなく
私たち親子は朝を迎えるのだった。
“寝る間際のことなんてもう忘れているのだろう”
そう鷹をくくっていた私だったが、
あくる日の風呂上がり、
娘は今こそと言わんばかりに説教をしてきた。
「ねぇママ? 昨日絵本3つ読んでくれるって言ったのに、
2冊しか読んでないよ?
あと絵本読んでる時に“ん~~うん”とか言わないで?
りんちゃん意味わかんないから」と。
はい、子どもに割とガチでキレられてます(笑)。
そんなことが続いたので
“途中で眠くなるような本はもう止め。
私が純粋に読みたいと思えるものだけを揃える! ”
と、自分好みの絵本を積極的に揃えていく作戦に打って出た。
これがなかなか調子が良くて
途中で寝落ちをすることはなくなったのだ。
けれども、自分が好きで選んだ絵本。
読みながらストーリーに感情を込めずにはいられない。
本文に対して無駄に相槌を打ったりせずにはいられない。
替え文せずにはいられない。
たとえば主役の登場人物の名前は
いちいち娘の名前をねじ込んで読む。
(例:フランソワくん → ○○○ソワくん という風に。)
多少語呂が合わなくてもそこは気持ちで乗り切って。
読んでいる本人のエモーショナルな朗読とは裏腹に
取り立てて意味もなければ、面白くもない。
それらを“抑揚”と解釈するには無理がある
少々味付けの濃すぎる読み聞かせ。
ある夜、ウザさ極まりない私の読み聞かせに
とうとう嫌気がさした娘の一言を皮切りに議論がはじまった。
娘「本を作った人もがんばって作ったんだから、
ちゃんと読んで欲しいと思うよ?! 」
母「確かにそうかもしれない。でも作った人の想いを受けて、
ママはさらにその想いに想いを乗せて読んでるから、
それは作った人も喜んでいるはずだと思う」
娘「喜んでないと思う! (ピシャリ)」
母「いや、自分のことのように読んでくれたらうれしいと思う! 」
娘「私はね、うれしくないと思う。だってね、
せっかくがーんばって時間をかけて、たーくさんページを作って、
たーくさんものを集めて、たーくさん紙を用意して、
たーくさん字を書いたんだよ?
それがどんなに大変だったかわかるの?!」
母「うーーーん、それは大変だっただろうね」
娘「それがわかるなら丁寧に使ってよぉ! 」
(ここで引き下がりたくない自分)
母「…。ママが言ってるのは、気持ちを乗せて読むってことなんだよね」
娘「“きもちをのせてよむ”なんて、意味わかんないよ! 私は」
母「それは気持ちを込めて読むってことだ。
そもそも絵本というものには、
読む人に自由に楽しんで欲しいっていう思いがあると思う」
娘「じゃぁもう本は無しにすればいいじゃん。自分だけで話作るの!
こういう本は“読みたいな”と思った時だけ! 」
(下手なアレンジをしたがるくらいなら、潔くオリジナルで行けってことか!! )
母「わ、わかったよ…」
(引き下がった母に、さらに追い打ちをかける娘)
娘「はぁあ! 残念だったね! 私もこの本が読みたかったんだけど! 」
母「今度から主人公の名前は、ちゃんとその通りに読むよ…」
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眠さのあまりやけくそで大人げない発言をする母と、
作者の製作過程にまで想いを巡らせて
母の悪行を阻止しようとする娘。
夜中のディベートの勝敗は一目瞭然だった。
最近の娘の発言には、妙な説得力を感じている。